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zoom RSS 京都市東山区 part6 豊国神社 『真の首謀者』

<<   作成日時 : 2015/03/16 01:35   >>

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西暦1600年に勃発した天下分け目の『関が原の戦い』。西軍の主力として奮戦した武将では『石田三成』『後藤基次(又兵衛)』『大谷吉継』らが有名ですが、その西軍の中で誰よりも早く出陣式を行い西軍最大の部隊を率いたのは『宇喜多秀家』です。今回はその『宇喜多秀家』が決戦前の戦勝祈願で訪れた京都豊国神社から定説を覆す見方を紹介します。

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関が原の戦いでは、首謀者を石田三成とする説が一般的に浸透していますが、その三成は豊臣政権化の中では単なる検地奉公に過ぎず、対する東軍の大将『徳川家康』の相手としてはあまりにも非力と考えられます。

西軍諸将の中で、石高こそ毛利家上杉家の次となりますが、身分の上で最も高い人物は『宇喜多秀家』。

秀家は豊臣秀吉に従って四国征伐九州征伐小田原征伐にも参加をした武人且つ備中美作の2国を領する大大名で、秀吉から器量を買われて朝鮮出兵の先兵として働き、文禄元(1592)年の文禄の役では大将として出陣し、明軍を撃破して戦功もあげています。
そして、文禄3(1594)年には22歳の若さで権中納言となり、名実ともに有力大名となりました。
更に秀吉の晩年には26歳という最年少で豊臣政権の五大老の一員に抜擢され、秀頼の補佐・後見まで託されています。

【補足】
【宇喜多秀家(1573年〜1655年)』は、謀略や下克上で有名な『宇喜多直家』を父にもちます。しかし、イメージの悪い父の気質は全く受け継いでいません。
それどころか、子供の頃から愛くるしい美少年として有名で、その風貌から多くの人に愛されたと伝わります。

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関が原の戦いで西軍は周知の通り敗れていますが、その西軍の中で副大将として最も積極的に奮闘したのは秀家隊だったと云われているのです。

【補足】
秀家は東軍の猛将『福島正則』隊と激突し、熾烈をきわめた激しい白兵戦を展開して互角に渡り合っています。

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西軍の大将はというと意外と知らない方が多いのですが、毛利家の『毛利輝元』となります。

但しこの輝元が戦に参加していない点や三成が文治派で人望のないことを考えると、西軍の首謀者は別の見方ができます。

【補足】
『毛利輝元』は当時徳川家康に継ぐ実力を持っておりましたが、関が原の戦場には従弟の『毛利秀元』と一族の『吉川広家』を出陣させ、決戦時輝元自身は大阪城に留まっていました。
輝元はほとんど決戦を傍観しているだけであったため、西軍代表といえば石田三成というイメージがついてしまいました。

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それは

『宇喜多秀家こそが西軍の首謀者である』

ということ。

実際、秀家は両軍合わせて家康に次ぐ1万7000人(慶長見聞記より)の大兵力を動員していました。

秀家は関が原の戦いが勃発した慶長5(1600)年9月15日の前の7月1日、京都の豊国神社で出陣式を執り行った事が分かっています。
三成が家康との決戦意思を明らかにして、それを盟友『大谷吉継』に伝えたのが、翌日の7月2日のこと。その吉継が三成に西軍として協力を約束したのが、同月の7月11日となります。

つまり、秀家は三成や吉継らよりも先に家康への戦意を公表しているのです。

しかも豊国神社での出陣式には、秀吉の正室ねね(又はおね:北政所)の代理として、その側近の吉継の母『東殿』が出席しており、これは他に先駆けた豊臣家公認の挙兵宣言と言えます。

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また秀家は秀吉から非常に可愛がられていたことが知られており、その秀吉から『秀』の字を与えられ『秀家』と名乗っています。
更に秀吉の養女『豪姫前田利家の四女』を正室として、秀吉の猶子(準養子)となり、豊臣一門の扱いまで受けています。
それ故普段より本来の『宇喜多』姓ではなく、『豊臣』姓を使用していました。

豊臣一門で『秀』の字を持つ秀家の名前があれば、輝元やその他の豊臣恩願の将らも呼応し易かったことはと容易に想像ができます。

以上の幾つかの観点から見ると、決戦の首謀者はそもそも秀家で、官僚タイプで事務・調整が得意な三成が秀家の挙兵に乗じて西軍まとめに努めたと考える方が自然ではないでしょうか。

この様に考えると、秀家の挙兵から関が原の戦いでの奮闘までの流れが自然と一本の線に繋がる様でなりません。

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その後関が原の戦いの後敗れた秀家は、薩摩の島津家を頼ったあと斬首を免れて八丈島へ流されます。

その配流先で明暦元(1655)年まで83歳の天寿を全うし、なんと関が原の戦いで出陣した主な武将の中で一番長く生きました。

関が原の戦いで敗れた西軍の主力大名が一番長生きしたことは皮肉な結果ですが、もしこの時西軍が勝利していれば『宇喜多家』の天下となっていても不思議ではないのです!

秀家の出陣時の心情を考えながら豊臣秀吉が祀られているここ豊国神社に参拝して、そんな歴史ロマンに想いを馳せてみても面白いかも知れません。

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豊国神社

住所:〒605-0931 京都府京都市東山区大和大路通り正面茶屋町530
電話:075-561-3802
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【参考文献】
『世界陰謀ミステリー』「世界の巨大組織研究会」(株式会社イースト・プレス)
『真説 戦国武将 最強は誰だ?』「佐々木順一」(株式会社一水社)
『知られざる日本史 あの人の「幕引き」』「歴史の謎研究会」(株式会社青春出版社)
『決戦・関ヶ原〜敗軍の義将達〜』「西沢宗治」(株式会社日本文芸社)
『一冊で読む!戦国武将85人』「戦国時代研究会」(成美堂出版)
『戦国時代の舞台裏』「歴史の謎研究会」(株式会社青春出版社)

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