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zoom RSS サンクトペテルブルク(St. Petersburg) part1 『死の真相』 第一部 ネヴァ川

<<   作成日時 : 2015/04/02 01:20  

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クリミア半島介入の影響でロシアの通貨「ルーブル」が大暴落しています。この状況で今旅行先としてロシアを選ぶことがお徳になっており、現在ロシアを訪れる人が増えています。そのロシアの中でも一番人気のある都市が古都『サンクトペテルブルク』。今回は久しぶりの二部構成で、このサンクトペテルブルクを舞台にロシアが生んだ偉大な作曲家『ピョートル・チャイコフスキー』の死の真相に迫ります。

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バレエ音楽眠れる森の美女」「くるみ割り人形」「白鳥の湖」などで知られるロシアの巨匠『ピョートル・チャイコフスキー(以下チャイコフスキー)』は、有名な人物にも関わらず実は現在に至るまで死因がはっきりしない人物です。

【補足】
チャイコフスキー(1840〜1893年)は帝政ロシアの作曲家です。彼は6歳でドイツ語とフランス語を解し、7歳でピアノを始めています。
その後法律学校を卒業したあと、法務省に勤務するも音楽の夢を捨てきれず、1862年にサンクトペテルブルク音楽院に入学しました。
しかし、卒業はしたものの作曲一本では食べていくことができず、1866年にモスクワ音楽院で教師のアルバイトを行っています。
そして、大富豪のナジェジダ・フォン・メック夫人の援助で1878年に音楽院を辞して作曲に専念し、西欧的な伝統様式を完成させました。
現在代表作にはバレエ音楽「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」「白鳥の湖」などがあります。

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チャイコフスキーの死因は、一般的に生水を飲んでコレラに感染したこととされています。

実際チャイコフスキーが過ごしていた当時にコレラが流行していていました。
弟『モデスト』がチャイコフスキーの死後「兄が生水を飲むので心配していた。」と証言していたことも証拠となっています。

しかし、このコレラ説には幾つか疑問点があるのです。

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1つ目は、チャイコフスキーがコレラ感染後5日という僅かな日数でこの世を去ったことです。
これは通常のコレラ潜伏期間に比べてあまりにも短いとされています。

2つ目は、コレラが流行しているのも関わらず、生水を欲していたとされることです。
サンクトペテルブルクを流れる『ネヴァ川』の生水を飲んで感染したと云われていますが、チャイコフスキーは母親をコレラで亡くしています。
その為コレラの恐ろしさは十分分かっていた筈で、他に飲み物が手に入り難い場所でもない首都で、わざわざ生水を飲む必要はないと考えられます。

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【補足】
チャイコフスキーの伝記によると、1893年11月1日にアレクサンドル劇場で芝居を観た後、レストランに立ち寄って、店員に「ネヴァ川の水をくれ」とおかしな注文をしたとあります。
店員はコレラが流行していたことを理由に「ミネラルウォーターしか出せない」と応じましたが、このときチャイコフスキーは興奮して怒り出しています。
そしてその店員が仕方なく言われた通りにネヴァ川の水を汲んできて差し出すと、一気に飲み干し、その翌日にコレラを発病。しかも医者を呼ぶことを拒んでいます。
夕方になって弟のモデストが医者を連れてきたときには、既に手遅れの状態で、「放っておいて下さい。私の病気は治りませんから」と呟いたとあります。
因みに最後の言葉は「呪われ者」でした。

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3つ目は、チャイコフスキーが臨終の際に弟のモデストをはじめ16人の人物が看取ったとされていることです。
いくら偉大な作曲家とはいえ、コレラの様な非常に感染力の高い病気にかかっている人間の近くにそんなに多くの人が近づくのはおかしいです。

情報の少ない地方であれば未だ分かりますが、場所は情報の伝達の早い首都であり、無知な人間ばかりが集まっていたとは考え難いと思われます。
しかもコレラ患者は当時市当局が隔離して、自宅を立ち入り禁止にするのが一般的でした。
因みに、看取ったとされる16人がコレラを発病したという記録もありません。

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4つ目は、チャイコフスキーの遺体が2日間一般市民に公開されたことです。
コレラ患者には、感染を恐れてその死体にも近寄らない筈です。
通常コレラ患者の遺体は鉛の柩に納められていましたが、チャイコフスキーの遺体は安置しただけの状態で、一般公開されています。
その上、チャイコフスキーが使用していた寝具は焼却されずに洗っただけで、自宅の検疫すらも行われた記録がありません。
この点は仮にコレラが死因であった場合、当時のロシア医学の常識から考えてもかなり不可解なのです。

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5つ目はデスマスクの表情が穏やかなことです。
サウサンプトン大学の臨床病理学の権威であるライト教授の見解では、コレラ患者の死に顔は非常に苦痛の表情を浮かべるため、穏やかな表情は考えられないと結論付けています。

以上の複数の観点から、コレラによる死因説は考え難いと結論付けられます。

では、真の死因は何か?

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実はチャイコフスキーは自殺したという説が考られるのです。

チャイコフスキーは幼い頃から極度の神経質で、精神的に不安定であり、何かある度に激しく衰弱したり自殺を考えていました。
53年の生涯の内なんと10回あまりの『鬱病(うつ病)』期を経験していたと云われています。

女性関係も散々で、全て上手くいかずに終わっています。

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先ずオペラ歌手と婚約しましたが、チャイコフスキーが結婚を引き伸ばし続けた結果、彼女は去って行きました。
続いて1877年チャイコフスキーが37歳のときに、かつての音楽院の教え子のだった女性歌手のゴリ押しもあって半ば強引にアントニーナ・ミリューコワという女性と結婚しました。

この時積極的だったのは彼女の方でしたが、いざ結婚してみるとヒステリックで派手好きな女性ということが分かり、チャイコフスキーは早期に結婚生活に嫌気がさしてうつ状態に陥り、家出してコーカサス地方に逃げ出してしまいます。しかもモスクワ川に身を投げて入水自殺を図っています。
見るに見かねた友人らが別居に手を貸し、こうして結婚生活は僅か9週間で終わりを迎えたのです。

しかしアントニーナ・ミリューコワは離婚に同意せず、それどころか入籍したままの状態で次々に男を作り、3人の私生児を産んでいます。

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その後、チャイコフスキーは大富豪のナジェジダ・フォン・メック夫人(以下メック夫人)という音楽好きの美しい未亡人からの援助の申し出を受け、経済的援助で作曲活動に没頭していきます。

【補足】
このメック夫人の援助は、チャイコフスキーの教え子の一人であるコチュークの仲立ちに因って実現しています。
援助額は年間6,000ルーブルという大金でした。

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このメック夫人とは14年間と数ヶ月も手紙のやり取りを続けて交際していましたが、何とも風変わりなものでした。
肉体関係があった訳でもなく、それどころかチャイコフスキーは会うことを避け続け、ひたすら手紙で消息を伝え合う関係を保っています。
たまに演奏会で顔を合わせる機会があっても、会話を交わすことはなかったと云われています。

このプラトニックで不可思議な関係は、1890年にメック夫人からの「経済的危機につき、援助をやめます」という手紙を送るまで続きました。

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【補足】
チャイコフスキーとメック夫人とは約14年間の間に1200通あまりの手紙をやりとりしていました。
あるとき、メック夫人が「友人の様に呼び合いましょう」とフランクな付き合いを提案したことがありましたが、何故かチャイコフスキーは怯えてこの申し出を断っています。

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チャイコフスキーがつくった曲の中ではバレエ音楽が最も有名ではありますが、実は交響曲第6番悲愴』を最高傑作とする人も多いです。
その『悲愴』の初演は1893年10月28日で、評論家にも聴衆にも絶賛されました。
ところがその初演の翌日、チャイコフスキーは部屋に閉じ篭もり啜り泣きを始めたと云われています。

【補足】
このとき、書類の整理をして遺言状を確認していたという説もあります。


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そして、その初演から9日後の1893年11月6日、チャイコフスキーは急逝しました。
『悲愴』のリハーサルでも情緒不安定な様子だったと伝わっており、偉大な作曲家は常に音楽とは別の悩みを抱えていたと見られます。

『悲愴』は文字通り悲壮感に溢れる名曲。
チャイコフスキーがどの様な心持ちで、この曲を書いていたのかは彼のみぞ知ることとなっています。


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ネヴァ川(ロシア語:Нева)

サンクトペテルブルク(Saint Petersburg)
公式ウェブサイト : http://eng.gov.spb.ru/
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【参考文献】
『学校ではあつかえない世界史』「歴史の謎を探る会[編]」(河出書房新社)
『歴史人物から読み解く世界史の謎』「歴史のふしぎを探る会」(株式会社 扶桑社)
『世界史の謎と暗号』「歴史の謎研究会」(株式会社青春出版社)

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
そうですか、音楽史では死因はコレラって覚えましたが、その状況からすると違ってそうですね。全然知りませんでした(@_@) サンクトペテルブルグはいつか行ってみたい所です。相変わらず写真が素敵ですね♪
ターコ
2015/05/04 19:52

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