長崎県対馬市 part1 『ロシア軍艦対馬占領事件』

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約150年前の今月3月は外国船来航事件が起こった月です。黒船来航?いいえ外国船来航といっても黒船ではありません。今回は知られざる『ロシア軍艦対馬占領事件』を紹介します。

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『ロシア軍艦対馬占領事件』とは1861年3月(文久元年2月)対馬にロシア艦が襲来し占領した事件を指します。

1861年、極寒のロシアは不凍港を確保することを目的として、対馬に根拠地を建設しようと艦隊派遣を行います。
海事省大臣のコンスタンチン・ニコラエヴィチ大公の命を受けたビリレフ艦長率いるポサドニック号は、3月4日対馬の尾崎浦に寄港し、無許可で上陸・工場や練兵所などの基地建設を始めました。

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【補足】
ポサドニック号が投錨した時に、対馬藩(対馬府中藩)主であった宗対馬守義和は非開港場での行為を遺憾に思い、ロシア側に速やかに退帆するよう抗議しています。
しかしビリレフ艦長は船が難破して航行に耐えられないため修理に来航した旨を回答し、修理工場の設営資材を要求しています。
またこの時併せて食料や遊女も同時に要求しています。

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この時対馬藩内は武力排除主張の攘夷派と紛争回避の穏健派との間で揺れました。
宗対馬守義和は穏便に解決しようと、問状使を派遣し何度も不法を咎めましたが、ロシア側は無回答を貫きました。

そして、ビリレフ艦長らは半ば強引に大船越瀬戸を突破しようと対馬藩番兵の殺傷事件を起こします。

【補足】
4月12日、ロシア兵が短艇に乗り大船越の水門を通過するのを対馬藩警備兵が制止すると、ロシア兵は警備兵であった松村安五郎を銃殺した後郷士2名(内1名は舌を噛み切り自殺)を捕虜として拉致し、軍艦に連行しています。更に番所を襲撃し武器や牛を強奪、住民を数名拉致しました。翌4月13日には大船越の村で水兵100名余りによる略奪行為を行っています。

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更に、ロシアは対馬藩に対して対馬を事実上のロシアの保護領とする内容の十二カ条の要求(『藩主への面会要求』『芋崎の租借要求』etc)を対馬藩に突きつけ、これにより対馬全島は混乱に陥りました。

この要求に対して対馬藩は対応に苦慮します。
そして、面会を拒否しながらも長崎と江戸に急使を派遣し幕府の指示を仰ぎました。
報告を受けた幕府は、箱館奉行の村垣範正を使い函館駐在のロシア総領事ヨシフ・ゴシケーヴィチにポサドニック号退去を要求させます。
またこの時外国奉行であった小栗忠順(おぐりただまさ)を対馬に派遣させ事態の収拾を図りました。

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同年5月に対馬に到着した小栗忠順は、ロシア側と3回会談(5月10日,5月14日,5月18日)を設け不法を抗議したあと、5月20日に江戸への帰路につきます。

小栗忠順は江戸に戻ると、対馬を幕府の直轄領とすることや国際世論に訴えることを老中に進言しますが、何れも受け入れられることはありませんでした。(この後の7月小栗忠順は外国奉行を辞任することになります。)

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5月26日、交渉に行き詰まった対馬藩は藩主との謁見を認めざるを得ない状況に陥り、部下を従えたビリレフ艦長は対馬藩主宗対馬守義和と終に謁見することになります。
この謁見の場でロシア側は芋崎の永久租借を要求し、見返りとして大砲50門の進献/警備協力等を提案しました。
この要求に対して対馬藩は藩独断での回答はできないとして幕府への直接交渉を提示し回答を避けます。

この後暫く交渉の膠着状態が続きますが、同年7月イギリスの関与により事態は急展開します。

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当時、九州と朝鮮半島の間に位置する対馬近海は、イギリスとロシア勢力がぶつかる地域でした。
それだけに両国とも対馬に海軍基地を建設したいという野心を持ち合わせていたため、イギリスがこの事態に関与することになります。

【補足】
ロシアの対馬占領の2年前にはイギリス船アクチオン号が来航し、乗組員が無許可に上陸して湾内を測量したりする騒ぎも起きています。
ポサドニック号来航はこのアクチオン号事件に刺激されて発生したことで、イギリスが対馬を支配下に治めるより先に基地を建設する意図がありましたが、そういう事情だけにイギリス側も黙っている訳にはいかなくなり関与するに至ったのです。

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7月9日、イギリス公使ラザフォード・オールコックと東インド・極東艦隊司令官ジェームス・ホープ中将が老中安藤信正らと協議し、イギリス艦隊の圧力でロシア軍艦を退去させることを幕府に提案します。(この協議には幕府軍艦奉公並の勝海舟も参与しています。)

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7月23日、イギリス東洋艦隊の軍艦2隻が対馬に回航し、イギリス東洋艦隊ホープ中将はロシア側に対して『たとえ徳川幕府からの依頼がなくても、東インド艦隊を呼び寄せて、ロシア艦を排除する』と通告の上、厳重抗議を行います。
また老中安藤信正は、再度箱館奉行の村垣範正に命じてロシア領事に抗議を行いました。

イギリスが関与したことを受け、ロシア領事ヨシフ・ゴシケーヴィチは形勢不利と判断し、イギリスとの全面衝突を避けるべくビリレフ艦長の説得にあたります。そして、事件発生から半年ほど経った文久元年8月15日(1861年9月19日)、終にロシアのポサドニック号は対馬から撤退しました。

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ロシアを対馬から撤退させたイギリスでしたが、その後ロシアに代わって対馬を占領しようとはしませんでした。
それは、ロシア艦を追い払った後にイギリスが占領したのでは、今度はロシアが黙ってはおらず本格的な英露戦争に発展してしまう危険性があった為です。

イギリスとロシアの両国が対馬に野心を持ちつつ牽制しあった為に、対馬はどちらの植民地にもならずに済んだのでした。

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【参考文献】
PHP研究所発行 『歴史の意外な「ウラ」事情 あの事件・あの人物の”驚きの事実”』

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この記事へのコメント

2010年04月06日 08:55
ウェブリでは、ケイメイと言う名前でブログを書いています。ウェブリのURLです。
よかったらどうぞ遊びに来てください。
2010年04月06日 08:57
追伸。なくんの方がわかりやすかったですね。
2010年04月06日 22:17
なくんさん
こんにちは。

これからもよろしくです。

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