大阪府堺市 part1 与謝野晶子生家跡 『乙女の恋』

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16代経済財政政策担当大臣に就任した『与謝野馨』氏。就任には賛否両論の声はありますが、やるからには職務を全う頂きたいと思います。この方は苗字からも察しがつく通り、あの明治を代表する女流歌人『与謝野晶子(よさのあきこ)』のお孫さんとしても有名です。今回はその『与謝野晶子』がにいた頃の恋のお話しを紹介します。

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『与謝野晶子(1878~1942年)』は本名を『鳳しよう(ほうしよう)』といい、明治11年12月7日に大阪の堺で裕福な老舗の駿河屋という羊羹屋で生を受けました。

鳳家には晶子が生まれる前に既に異腹の姉2人と同腹の兄1人がいましたが、晶子の父『鳳宗七』は男が生まれる事を望んでいたと云われています。
しかし生まれたのが女の晶子と分かると落胆を隠そうともせず、宗七は芸者遊びまで始めています。

晶子の母『鳳つね』はこの心労から体調を崩してしまい、その影響で赤子の晶子は親戚に預けられることになりました。
この3年後晶子に弟が生まれると晶子はやっと元の実の父母と一緒に暮らせるようになります。

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少女時代の晶子は、比較的恵まれた環境に育ちました。
父宗七は多趣味で古典漢籍(かんせき)等も読んでいたため、晶子の才能を見抜き町の漢学塾へ通わせることにしました。
父の影響から幼い晶子も読書が好きになり、この漢学塾で難しい漢詩等もみっちりと学んでいます。

晶子はこの塾で『源氏物語』の華麗な世界を夢見、そして漢詩に歌われていた『楊貴妃(ようきひ)』に憧れを抱きました。
当時を読んだ歌

「あなかしこ楊貴妃のごとに斬られむと思ひたちしは十五の少女(おとめ)」

晶子は命を投げ出す程の恋を早くしたいと思う早熟な少女でした。
晶子は並みの女性の人生など欲しくはなく、自分しかできない生き方がしたかったのでしたが、明治という時代では両親が女学校に通われてくれたとはいえ、その目的は花嫁修業の一環であり、両親は晶子に良縁を望んでいました。

女学校を卒業すると晶子は家事手伝いをして毎日の日々を費やします。
このとき『源氏物語』の他に『大鏡』等の古典を本格的に読み耽り、また併せて『樋口一葉』や『島崎藤村』の作品もむさばるように読んでいます。

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そんな折、晶子の前に若い男が現れます。
それは晶子の家の近所にある覚応寺の跡取りであった河野鉄南(こうのてつなん)という青年です。
晶子は浪華青年文学会という文学サークルの会員でありましたが、河野鉄南もその仲間でした。

河野鉄南はインテリで心優しく、晶子は恋に落ちました。
そして何通もの手紙を彼に送りアプローチします。その内容は次の様な過激なものでした。

「このもだゆる少女をあはれと思し、何とぞ早く何とか仰せ被下度候(くだされたくさうらふ)。二三日も御返事御待ちもうしてもなき時は、私は死ぬべく候」

河野鉄南は困惑します。
それ故この恋は一向に進展はしませんでした。
しかし、晶子にとって河野鉄南は初恋の人以上に重要な人物となります。
それは河野鉄南の幼馴染が生涯の恋人となる与謝野鉄幹(よさのてっかん)であったからです。

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晶子が21歳のとき、河野鉄南は友人の「与謝野鉄幹が大阪へ講演に来るので紹介したいから是非会いに行かないか」と晶子に持ちかけます。
それは与謝野鉄幹が各地の友人知人に詩歌を志す良い人物がいたら推薦してくれるように手紙をだしていたからでした。

【補足】
明星』の同人を関西方面にも広げたいと思っていた鉄幹は偶々関西青年文学会(浪華青年文学会の改称)から講演を頼まれており、これを丁度良い機会と思い8月に大阪に来ていました。

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与謝野鉄幹は当時は『虎の鉄幹』と呼ばれ『明星』という詩歌雑誌を発刊したばかりの今を時めく若い詩人として有名であり、晶子は胸躍る想いでした。
そして河野鉄南に連れられ晶子は大阪に出向き、河野鉄南の紹介で鉄幹の泊まっていた北浜の旅館へ挨拶へ赴きます。
そこが晶子と与謝野鉄幹との初めての出会いになります。
雄々しい詩を詠んでいた与謝野鉄幹は意外にも洋服を隆と着こなした色白で長身の美少年でした。

【補足】
与謝野鉄幹は晶子と会う前に
「いまだ見ぬ君にはあれど名のゆかし 晶子のおもと歌おくれかし」(与謝野鉄幹)
との文を晶子宛に出しており、この事から鉄幹自身も晶子に興味を持っていたことが伺えます。
後に晶子は胸を躍らせながら七首の歌を投稿し、このうち六首の歌が『明星』二号に掲載されています。

鉄幹自身も歌や詩の機関紙に投稿していた晶子のことを知っており、自身の『明星』に投稿するように晶子に熱心に勧めます。
晶子はいたく感激し、河野鉄南から与謝野鉄幹へと心を移すのでした。
当時27歳の鉄幹は才能に溢れ晶子の理想の男性像でした。

また晶子は同じ席で鉄幹より『山川登美子』という年下の女性を紹介されます。
男女問わず綺麗な人物が好きだった晶子はこのときたちまち山川登美子とも親しくなりました。

【補足】
山川登美子は若狭出身で、大阪の名門『梅花女学校』を優秀な成績で卒業して、歌の道に生きたいと思い、故郷の縁談を振り切って『梅花女学校』の校友会事務などを手伝いながら、大阪の姉夫婦の下にいた『明星』の同人でした。
山川登美子は明るい人柄で晶子とのこの初対面の際に直ぐに「お姉様」と呼んだと云われています。

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この二人は共に鉄幹に恋をし、鉄幹が東京へ戻ってからも何かにつけて誘い合わせて会いました。
二人で次のような連歌をし、鉄幹への恋を歌い上げることさえあったのです。

「ささやきのあつきくちびるふれふれてわが耳もえぬききとれぬまで」(山川登美子)
「病みませるうなじに繊(ほそ)きかひな捲(ま)きて熱にかわける御口(みくち)を吸はむ」(与謝野晶子)

【補足】
これまでの晶子は恋に恋する夢見がちな少女に過ぎませんでしたが、鉄幹という恋の相手を実際に得たことで歌は目を見張る程飛躍的に素晴らしい作品へと変貌していきました。

鉄幹もまた二人の美しく才能溢れる年頃の娘が自分に想いを寄せることを大いに楽しみ、晶子を白秋、登美子を白百合と呼んで可愛がりました。
そして二人の歌が評判になると『明星』には次第に女性投稿者が増えていきました。
彼女らは白梅や白藤等と呼び合い『明星』誌上に絢爛と咲き誇ります。

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しかし、この三人幸せな時間は終わりを迎えます。
山川登美子が親の決めた親類のメルボルン領事館書記をしていた駐七郎と結婚することになったからです。
山川登美子も鉄幹を深く愛していましたが、鉄幹がはっきりした意思表示をしてくれない為、晶子の方が好きではないかと思っていました。
そこで、乗り気で出ない両親からの縁談の催促と姉夫婦からの立ち退き等も重って弱気になり、自ら身を引こうと決心したのでした。

そして三人は明治33年の秋に紅葉燃え立つ京都の南禅寺の『辻野(正式にはつじは二点の漢字)』で宿を取り別れの一夜を過すことになります。
三人は永観堂(禅林寺)で真っ赤に色づいた紅葉を眺めながら、夕日でひときわ華やいだ姿に見惚れていました。

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「それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ」(山川登美子)

鉄幹を晶子に譲り登美子自身は身を引くという別れの歌でありました。

【補足】
山川登美子の夫は東京のある煙草商会の支配人になることが決まっていましたが、結核を患いなんと新婚2年たらずで死亡してしまいます。
山川登美子はこのとき24歳で未亡人になったばかりか、自分自身も結核を患って31歳の若さという短い生涯を終えています。

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与謝野晶子生家跡

住所:〒590-0950 大阪府堺市堺区甲斐町西1
電話:072-233-5258 (堺観光コンベンション協会)
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永観堂(禅林寺)

住所:〒606-8445 京都府京都市左京区永観堂町48
電話:075-761-0007
交通:京都市バス5系統「南禅寺永観堂道」下車徒歩3分
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【参考文献】
『知られざる日本史あの人の「幕引き」』歴史の謎研究会(株式会社青春出版社)
『[伝説]になった女たち』山崎洋子(株式会社光文社)
『君死にたもうことなかれ 与謝野晶子の真実の母性』茨木のり子(株式会社 童話屋)

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この記事へのコメント

2011年03月25日 13:17
大阪府堺市を訪れたのは、20年近い昔になります。
この時、是非とも与謝野晶子の生家跡や沢山の歌碑を訪ねたいと思いましたが、急用が出て1泊で帰宅してしまいました。
仁徳天皇陵等の、前方後円墳も多く存在するので、楽しみにしていたのですが…
夢の叶わなかった街の佇まいなどを、改めて拝見しています。
鉄幹の「人を恋うるうた」三高の寮歌でもあり“妻をめとらば才たけて・・・”から16番まである長い歌ですが、昔は良く歌いました。(若かりし頃~笑)
私は才媛、与謝野晶子もですが、恋に破れた山川登美子の歌が好きでした。夫と死別したあと東京へ出て女子大学へ進学しているのですよね。夫と同じ結核になり、生家で28歳の生涯を閉じていますね。
・後世(ごせ)は猶今生だにも願わざるわがふところにさくら来てちる
深い諦念の心と、花への哀惜の心情に惹かれます。
2011年03月26日 15:52
私は、あまり文学音痴ですが、与謝野鉄幹・晶子夫妻の事は、知っています。
でも、山川登美子さんなる人との三角関係は知りませんでした。

故郷・山梨の銘酒「春鶯囀」は与謝野晶子が萬屋醸造店に宿泊した際に詠んだ歌から命名したそうです。
『春鶯囀のかもさるゝ蔵』
ラベルは歌人、与謝野晶子の直筆によるものだそうです。
田舎のお土産・・・と言ったら、このお酒にしています。
身近に与謝野晶子を感じたくって・・・・
ターコ
2011年03月27日 23:24
お、三角関係だったのですか~(-"-)ううむ。恋愛関係にあまり興味がありませんが、やはりそうした様々な人間関係や、そこで生まれる感情があったからこそ、良い作品が生まれたのでしょうね。

山川さんは、気の毒でしたね。はっきりしない男を諦めたのは正解だと思うけど、その後が不遇で可哀想でした。結果論だけど、もしかしたら諦めない方が良かったのかもしれませんね。
beetle
2011年03月28日 09:00
与謝野晶子の恋ですか・・・
結構激しい気性の方ですね、良いブログです、ゆうじさんは小説でも書けるのでは?
いつもながらのきちんとした構成、写真恐れ入ります、楽しく読まさせて頂きました!
2011年03月28日 23:10
こんばんは。思わず引き込まれて読ませていただきました。
晶子。。。情熱の人ですね。
登美子さん。。。身の引き方がいかにも明治の女性ですね。私が大好きな明治の縮緬のように
控えめではかなげな麗しい人。。。

晶子は生まれるのが100年早かったかも知れません。子沢山でしたが子連れでカフェに入り堂々とビールを飲んでいたと言われます。
明治人は大正~昭和初期生まれの人よりも
西欧の影響が強くリベラルな傾向が強いような気がします。

また晶子の歌が読みたくなりました。

2011年03月30日 21:31
S子さん
いつもありがとうございます。

堺は歴史がある割には史跡があまり残っていない街ですが、『○○跡』等の碑は数多くあり、その時代に思いを馳せる事ができます。

次回訪れる際は是非色々な碑を巡り歩いてみて下さいね。
2011年03月30日 21:34
monalisaさん
コメントありがとうございます。

そうですか。
山梨にも与謝野晶子は足を運んでいたのですね。それは知りませんでした。
文献をもう一度読んでみてネタになるようなエピソードがありましたらいつの日かBlogで披露したいと思います。

これからも与謝野晶子を身近に感じていて下さいね♪
2011年03月30日 21:44
ターコさん
いつもありがとうございます。

そうですね。
登美子さんの決断は正しかったと思いますが、結果は幸せとは言い辛いでね。

ですが、その苦悩から素晴らしい歌を残す結果となりました。
文学史にはその足跡を残せたと言えますね。
2011年03月30日 21:48
beetleさん
褒めて頂き恐縮です。

今回は出会った文献が素晴らしかっただけです。ですが反響は良かったので、また頃合いをみて別のエピソードを紹介させて頂きますね。

お楽しみに♪
2011年03月30日 21:51
乙女小箱さん
こんにちは。

今回のネタは乙女小箱さんに是非読んで感想を頂きたかったので、紹介しました。

気に入って頂けたみたいで嬉しいです。
励みになります。

今回をきっかけに明治期のネタにももっと挑戦したいと思いました。
ありがとうございました。
みしぇる
2011年03月31日 00:53
ゆうじさん

震災後無事で何よりです.
日本史のことはよくわからないので大したコメントはできませんが,一言でも書かせていただきます.
今CMで流れている与謝野晶子の詞は彼女の幼少の頃の切実な体験から来ているのかもしれないのかな,,,,と今回のブログを拝見して思いました.


みしぇる
2011年04月01日 15:37
みしぇるさん
コメントありがとうございます。

文学は裕福か貧困の中から生まれると言いますが、与謝野晶子については結婚前は裕福で鉄幹と結婚後は一転して経済的には苦境に陥ります。
また今回のネタの友人との三角関係等の様々な
経験と晶子の感性が上手く融合して今日まで残る深みのある歌ができたのだと私もあらためて感じました。
(因みに樋口一葉や石川啄木等は生涯貧困の中で生き、文学の芽が花開いています。)

P.S
私も特に歴史の専門家ではなく只の素人ですので、お気軽にどうぞ。

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