滋賀県長浜市 part1 脇坂安治屋敷跡 『出世の秘密』

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今年のNHK大河ドラマ江~姫たちの戦国~』のロケ地にもなった浅井氏の本拠『小谷城』。その麓には『関ヶ原の戦い』の寝返りと『賤ヶ岳七本槍』の一人として有名な『脇坂安治(1554~1626年)』の屋敷跡が残っています。

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下克上が当たり前であった戦国の世では珍しく、足軽身分の脇坂安治は明智光秀配下からトントン拍子に出世し、終には伊予大洲初代藩主まで上り詰めています。今回はできる男『脇坂安治』の出世のきっかけを紹介します。

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江戸時代播磨龍野5万3000石脇坂家の大名行列は雌雄の貂(てん)の皮を黄色く着色して槍竿にし、先頭と殿様の脇そして後方のそれぞれ左右に打ち立てていました。
その貂皮がまるで泳ぐ様に一行を導く様は、参勤交代道中江戸城下での評判を呼んでいました。

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脇坂家の繁栄は脇坂安治がこの評判となった貂皮を戦国時代に手に入れた事によると云われています。

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『脇坂家家譜』によると、脇坂安治は当初明智光秀に仕えており当時は甚内と呼ばれていたと伝わります。
そして明智光秀の丹波黒井城攻撃に参加して、赤井悪右衛門直正と対峙したときに敵兵の槍、鎧、脇差を奪ったと書かれており、その後脇坂安治は羽柴秀吉に仕え禄米3石を得て徒武者になったと記されています。

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【補足】
しかし、播磨龍野に伝わる『脇坂家相傳貂之革由来』では、黒井城攻め時には既に羽柴秀吉に仕え、一隊の部隊長であったと記されています。

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貂皮を手に入れたのはこの黒井城攻めのときで、丹波の豪族であった『丹波の赤鬼』こと赤井悪右衛門直正は黒井城に篭城して織田信長の軍勢の攻撃に徹底抗戦をしていました。
そこに若い脇坂安治が単身黒井城に乗り込み、赤井悪右衛門直正に和睦を提案します。

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赤井悪右衛門直正は脇坂安治の申し出を拒否しましたが、その勇気にいたく感心して赤井家家宝であった貂皮を送ったとされています。

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【補足】
ここで赤井家家宝の貂皮を唯の足軽に渡すとはなんとも信じ難い出来事ですが、このことを裏付ける話しが残っています。
黒井城のある丹波市春日町では七五調を繰り返す素朴で単調な歌詞の『黒井音頭』が受け継がれていますが、これは赤井悪右衛門直正が戦いに勝つ毎に領民が輪になり手拍子を打って踊ったことが起源とされています。

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その歌詞には

「赤井直正 十三才の 武勇のほどこそ 知られたる 音の名高き 貂の皮」(21番)
「羽柴の勢に かくれなき 七本槍の 一人なる 脇坂甚内に 贈りたり」(22番)
「それにより後は いく世にも 播州龍野の 脇坂の お家に伝わる 宝なり」(23番)

とあるのです。


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更に文久2(1862)年に脇坂安治を祭神として龍野神社が建立されていますが、このとき脇坂安治縁の品として雌雄一対の貂皮が奉納されています。

尚、この貂皮は現在兵庫県たつの市たつの市立龍野歴史文化資料館に保管されています。
その貂皮は長さが何れも171cmで毛皮表面が黄金色に着色されおり、ここまでくると唯の嘘話では片付けられないと言えるのです。

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貂皮は故事から赤井家累代の家宝であった事が分かります。
その故事によると足利尊氏の時代に赤井家当主が丹波大江山の狩りの最中に洞窟を燻すと奇獣が飛び出してきた。
これを殺すと更に雌も出てきた為、雄と併せて殺した。
そしてもしかすると霊獣かも知れないと首塚を作って祀り、その皮を袋にして太刀を納めた。
以後奇瑞が起こった為、武運の守り神として戦場に出る際の指物にした。
織田信長が明智光秀に丹波攻略を命じた当時、赤井氏は丹波氷上郡を支配しており、直正は勢力拡大の為荻野十八衆の盟主の下に養子に出て荻野氏を名乗ります。
そして直正は叔父の荻野秋清を刺殺して居城の黒井城を乗っ取り、悪右衛門と称しました。
その後兄が他界した為、直正は荻野姓のまま赤井氏を相続し、貂皮もこのとき相続したとあります。

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この貂皮を手に入れた脇坂安治はその才能を徐々に開花させていきます。

羽柴秀吉へ頼みに頼み込んで配下になると羽柴秀吉と柴田勝家が織田信長の後継を争った『賤ヶ岳の戦い』で、福島正則加藤清正と並んで『賤ヶ岳七本槍』に数えられる活躍をし、関東の北条家との戦いであった『小田原の役』ではそれまで全く経験の無かった水軍指揮を果たします。
更に秀吉の『文禄・慶長の役』でも奮闘するなど、脇坂安治の軍才は突出していました。

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『関が原の戦い』では西軍にこそ属していましたが、事前に東軍徳川家康に接近しており小早川秀秋の寝返りに連動して大谷吉継隊に突っ込み、東軍の勝利に貢献しました。

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江戸幕府成立後は忠義を尽くして、外様として破格の待遇を受けるも秀吉への恩から豊臣家滅亡に加担する事を拒み『大阪の陣』では不戦しています。

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その後、脇坂安治は豊臣家滅亡と同時に隠居し、73歳の天寿を全うしたのでした。

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【補足】
貂皮の幸運のおかげからかこの後脇坂家は伊予大洲藩主、播磨龍野城主(3代脇坂安政時)と順調に代を重ねていきます。
更に10代当主脇坂安董(わきさかやすただ)のときには外様大名でありながら徳川幕府より寺社奉行老中にも登用されています。

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脇坂安治屋敷跡

住所:滋賀県長浜市小谷丁野町
見学:自由
交通:JR『河毛駅』より徒歩30分
   (小谷小学校近く,丁野交差点直ぐ)
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【参考文献】
『異説 戦国武将99の謎』「歴史の真相」研究会(株式会社宝島社)
『「戦国武将」がよくわかる本』株式会社レッカ社編著(PHP研究所)
『戦国武将 怖い話 意外な話』楠戸義昭(株式会社三笠書房)

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この記事へのコメント

2011年04月09日 16:30
小谷城と聞いて迂闊にも私は、長野県の小谷を思い浮かべました。
一頃、中央線を小谷行き列車が通っていた事が有ったからです。どこだろう?何処までゆくのだろうと興味が有ったのです。
それより昔は中央本線を、長野の塩尻で乗り換え中央西線で名古屋まで行った事が有りました。小谷は、(おたり)と言う名前も良いですね。
何年か経って、車で千石街道を北上した時、山間の小さな駅を見つけました。南小谷だったのです。安曇野を越え白馬を越えて、山深い処に有りました。小さな谷と言うに相応しい山間の小さな駅でした。その頃特急あずさが逝っていたのも不思議な感じです。そこで乗り換えて糸川線で糸魚川までと言う路線が敷かれていました。今はどうなっているのか解りませんが、懐かしい名前でした。
脱線しましたが、お話の小谷城は、滋賀県ですね。先年、滋賀へ行きましたが残念ながら湖東をめぐっただけに終わりました。
今、改めて4百何十年の昔をしのばせて頂いております。戦国の姫たちの、悲しい物語が武田家などにも沢山残っています。
2011年04月09日 22:38
「賤ヶ岳七本槍」というと、加藤清正と福島正則ぐらいしか名前を覚えていなかったのですが、脇坂安治の話は知らないことばかりで、楽しく読ませていただきました。きっと若い時から人を引き付ける魅力のあった武将だったのでしょう。

ターコ
2011年04月09日 23:29
出世ですか~。昔は出世は大事だったのでしょうね。今はどうなのでしょう。。評価されるのは当然嬉しい事でしょうけど…。私の周りには、男性も女性も、昇進してしまって、嫌々しょうがなく仕事をしてる人が多い気がします(^_^;) できる男、できる女も大変なのでしょうね。。
2011年04月12日 21:26
S子さん
いつもありがとうございます。

400年前に想いを馳せて頂き感謝します。
拙いブログですが、今後ともご贔屓に御願い致します。
2011年04月12日 21:30
しばやんさん
こんにちは。

脇坂安治は知名度こそ其処まで高い武将ではありませんが、その活躍は秀でており魅力のある人物であったと思われますね。

今回のブログを書くにあたり私自身も大変勉強になりました。
2011年04月12日 21:34
ターコさん
いつもコメントありがとうございます。

そうですね。
できる人物は其の人しか分からない苦労があると思いますね。
私はできる男ではありませんが、長所を生かして何とか少しでも近づけれるよう頑張りたいと思います。
YoshimuraKouji
2011年04月14日 21:30
初めまして、お友達登録ありがとうございます。
織豊政権期専攻でした!今後ともよろしくお願いします^ー^

脇坂は僕も非常に興味深い大名です。
淡路という地の良い意味での中途半端さが好奇心をそそるのかな?

関ヶ原で家康に与した大名の殆どが朝鮮役に出兵した大名というのが朝鮮役の大きな業の一つだと思います。
過酷な遠征を敢行した大名たちにとって、三成のしたことは余り褒められたものではありません。
恨まれるのも当然でしょうね^ー^;

資料を探ると三万石で文禄役1500、慶長役1200の兵を出してます。
この軍役は石高から見るとトップクラスの重さです。恐らく苦労も多かったでしょう。
その辺りの辛苦からくる文官への悪感情も、関ヶ原での「裏切り」の大きな要因だと思います。
2011年04月24日 07:34
YoshimuraKoujiさん

専攻されていたという事ですので、私などよりもずっとお詳しいと思いますが、コメントありがとうございます。

確かに朝鮮の役の石田三成の対応が後の寝返りと東軍方に組した武将の大きな要因であったと思いますね。
その他淀とねねの確執も西軍、東軍と分かれた要因でしょうね。

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