東京都新宿区 part8 真言宗豊山派多聞院 『不倫の結末』

画像


ワイドショータブロイド紙を賑わせた麻木久仁子さんと山路徹さんの不倫騒動が記憶に新しいですが芸能スキャンダルというのは現在では日常茶飯事です。近代に於けるそのはしり的存在は女優『松井須磨子』と言えると思います。今回は大正期を代表する女優『松井須磨子』の生涯を追います。

画像


松井須磨子は本名を小林正子と言い明治19年3月8日に長野県松代在清野村に9人兄弟の末っ子として生を受けます。

画像


【補足】
松井家の先祖はあの真田幸村(信繁)で有名な真田藩(松代藩)の有力家臣という良い家柄でした。

画像


しかし、父親が大酒飲みで身代を潰してしまい早々に他界します。
幼い正子は叔母のところへ養子に出されますが、小学校を卒業した翌年に養父にも先立たれてしまいます。
叔母も決して裕福ではなかったため、正子は16歳の時に姉を頼って単身上京しました。

正子の姉は麻布飯倉の菓子屋に嫁いでおり、須磨子はこの店で店番をしながら戸板裁縫女学校(現戸板中学校・女子高等学校)へ通っていました。
そして年頃の21歳になると正子は見初められて見合い結婚し、名の知れた割烹旅館に嫁ぎます。

しかし、割烹旅館の嫁には細かい気配りが必要であり、自己愛の強い身勝手な正子は姑と折り合いが悪くなって1年も経たずに離婚してしまいます。

画像


【補足】
この離婚の原因は正子が耐える事が苦手で、嫌な事は我慢のできない癇癪持ちの性格のせいもありましたが、夫の方にも問題はありました。
正子の夫は放蕩者で浮気をするだけではなく、悪い病気をもらってきてなんと正子にも感染させていたのです。

画像


その後、正子は一旦は姉の嫁ぎ先に出戻りましたが、姉に咎められて飛び出し、今度は従姉妹の嫁ぎ先であった三田の町田医院に身を寄せます。
この間に町田医院に家庭教師として来ていた前沢誠助と親しくなり、再婚話しが持ち上がると正子は素直にこの話に乗りました。

前沢誠助は当時東京高等師範学校の学生でしたが、俳優養成所で日本史の講師をしていました。
この夫の影響で演劇に興味をもった正子は、1909年文藝協会の演劇研究生の試験を受けることになります。

正子は取り分け美人という訳でもなく歌や踊りの素質そして表現力も特にないという全くの素人でしたが、なんと幸運にも25人の第一期生の一人としてこれに合格してしまいます。
英語ができなかった正子は本来ならば不合格でありましたが、このとき運命的に劇作家島村抱月(しまむらほうげつ)の目に留まり合格となったのです。

画像


女優『松井須磨子』の誕生です。(以下須磨子)

【補足】
島村抱月は文藝協会の幹部という坪内逍遥の愛弟子の文芸評論家で、小説、詩歌、戯曲等の実作も持っていた芸能界の実力者です。
またイギリスドイツに留学経験もあり、その才能と穏やかな人柄で若い演劇人にも人気がありました。

画像


舞台の世界を天職と思った須磨子は我武者羅に努力をしましたが周りの事はお構いなしで、
舞台狭しとドタドタと動いて踊り、人が驚くような大声で傍にいる者を強引に相手役として台詞の練習をしました。

また須磨子は練習以外の事には全く興味がありませんでした。
それは着る物が汚れていようと構わず、食事もただ腹に何か詰め込むといった具合でした。

須磨子は女優として成功するためには手段も選びませんでした。
なんと当時珍しい鼻を高くする整形も行っています。

画像


文藝協会第一回公演はウィリアム・シェークスピア戯曲ハムレット』で、須磨子はオフェリアを演じます。
この公演自体は大した評判にはなりませんでしたが、オフェリアの狂乱の場面は好評でした。

そして須磨子は女優として人気が上がり始めると冷淡にも夫前沢誠助に三行半を突き付け、家から追い出します。

画像


やがて、須磨子は女性解放の代名詞である戯曲『人形の家』のヒロインに抜擢されます。
この戯曲の翻訳と演出は自分を見出した島村抱月で、この舞台で須磨子は抱月の素材になりきり言うがままに動きました。

この舞台を機に2人は互いに相性の良い最高のパートナーである事を認識します。
そして須磨子はこの後抱月のために献身的に尽くし次々と主役を務めその度に高評価を得ました。

しかし、文藝協会ではこの2人の恋愛が問題になります。
抱月は須磨子を愛するが故我侭を何でも聞き入れ、舞台という共同作業では全体の調和を乱す要因となっていたのです。
しかも抱月は妻子ある身でした。

画像


文藝協会は抱月を査問会にかけ、須磨子との関係を詰問します。
この場で抱月は肉体関係こそ未だないが「須磨子を愛している」とはっきり答えました。

抱月を支持する者らは抱月の正直さに関心しましたが、問題は反って大きくなります。
このことがきっかけで須磨子は文藝協会を退団に追い込まれます。

画像


抱月は当時大学で教鞭も執っていましたが須磨子の情熱に負け、自らも退団し何もかも投げ出して1913年に須磨子と『芸術座』を立ち上げました。

【補足】
このことは不倫スキャンダルと共に新聞で大きく取り上げられ、後に文藝協会の解散に発展していきます。

画像


須磨子のために創られた『芸術座』はその後、モーリス・メーテルリンクの『モンナ・ヴァンナ』,アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフの『熊』,オスカーワイルドの『サメロ』と次々に公演を行い、何れも大成功でした。
特にレフ・トルストイの『復活』の成功は大きく、この舞台で須磨子が歌った『カチューシャの唄』は、日本全国で空前のヒットを記録することになりました。

【補足】
舞台の成功で須磨子の名声は上がっていきましたが、「自分の劇団」という意識が強く人望のなさと横暴で無神経な性格が災いして悪評も上がる一方でした。
また抱月も「芸術家であるが故の我侭」と須磨子を庇っていたため、余計に反感を買っていました。

画像


しかしその2人のロマンスは永くは続きませんでした。
『復活』の大ヒットから4年後の1918年に抱月がインフルエンザを患いこの世を去ったのです。

【補足】
須磨子はこの時、舞台に出ていて抱月の臨終には間に合っていません。
そして抱月の葬儀の日にもプロ根性で舞台出演をしています。

画像


抱月の死後も須磨子はオペラ『カルメン』等を演じましたが、恋人を失ったショックと舞台裏での反感の噴出から精彩を欠いていました。

画像


拠り所と女優としての後ろ盾を失った須磨子は絶望の淵に陥り、その寂しさから他の男に縋ろうともしましたが野性剥き出しの須磨子を誰も受け止められる者はいません。
そして終に抱月の死から2ヵ月後の大正8年1月5日、牛込芸術倶楽部の小道具部屋で首吊り自殺を遂げたのでした。

画像


【補足】
島村抱月の未亡人であった『島村いち子』は松井須磨子の自殺の話しを聞いた時に、「死ねる人はいい」と呟いたと云われています。

画像


自分の思うがままに生きた女優『松井須磨子』は、現在東京都新宿区弁天町の真言宗豊山派多聞院に分骨され静かに眠っています。

画像


画像


-----------------------------------------
真言宗豊山派多聞院

住所:〒162-0851 東京都新宿区弁天町100
電話:03-3268-7998
交通:都営地下鉄大江戸線牛込柳町駅徒歩6分
-----------------------------------------





画像


【参考文献】
『悪女たちの日本史99の謎』「歴史の真相」研究会(株式会社 宝島社)
『[伝説]になった女たち』山崎洋子(株式会社光文社)

画像

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 13

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス ナイス ナイス ナイス

この記事へのコメント

2011年04月18日 13:15
島村抱月、松井須磨子、カチューシャの唄。
何時の頃からか、聞き知っていましたが、奮いお話として、記憶から遠ざかっていました。詳しいお話を聞かせて戴いて、改めて生き様に感動しています。
坪内逍遥などとともに、早稲田界隈に縁があったようですね。
三十何歳かの年若い一生。それも自死。ある意味ではその凄まじい生き方。情熱的な短い人生に拍手したい気持になるのは何故でしょう。そこまで、命をかけて恋にも芸術にも生きる事が、私には到底できないからですね。
S子
2011年04月18日 13:19
いつもそそっかしくて済みません。
クリックして、消えてゆく文字。
しまった!!と思った時は遅すぎました。
奮いではなく古いでした。
ターコ
2011年04月24日 01:31
うわ、なんかすんごい女性ですねぇ(@_@;) ちょっとこんな人とは関わりになりたくないかも。そんな女性のことを好きになる男性が居るのですから、不思議なものですね。
2011年04月24日 07:49
S子さん
いつもありがとうございます。

確かに松井須磨子は凄まじい生き方でしたが、ある意味非常に実直で素直だったとも言えます。
その真っ直ぐな気持ちの表現が拙かった為、反感を買い不幸な人生となりましたが、芸術と抱月にかける思いは本物で素敵だったと思いますね。
2011年04月24日 08:07
ターコさん
いつもありがとうございます。

女性は男性を平均的に分析して評価する傾向がありますが、男性は女性のある一部分が飛び抜けている事で心を奪われ易いという傾向があります。
美貌、誠実さ、機転、笑顔etc

抱月は須磨子の真っ直ぐな姿勢と自分の感性を忠実にこなす姿だけで心を揺さぶられたので、他の欠点は見逃せたのかもしれません。
2011年04月24日 16:54
すごく面白いお話です。お話と言ってもフィクションの物語ではなく実在の人物なのですね。波乱万丈という言葉がふさわしい生き方だと思います。
それからゆうじさんのコメントを見てなるほど~と思いました。「男性は女性のある一部分が飛び抜けている事で心を奪われ易い」・・・ほほ~っ。
2011年04月25日 20:53
DONさん
こんにちは。

今回のネタ気に入って頂けたみたいで嬉しいです。励みになります。

因みに私は生活力のある美しく強い女性に惹かれます。
よんちゃま!
2011年04月26日 19:38
新宿に「弁天町」なんて あったんですね!(知らなかった)
瑞姫
2011年04月27日 06:32
叔母は戸板を出ています(*^_^*)
面白いな~!!
叔母に話をしてみます。
叔母は今一人暮らし。
トリビアにします(*^_^*)
ありがとうございます。
2011年04月27日 23:50
よんちゃま!さん
いつもありがとうございます。

新宿は嘗て宿場町だったこともあり、探せば色々と発見が多いです。
繁華街、歓楽街、摩天楼だけではない魅力があります♪
2011年04月29日 21:52
瑞姫さん
こんにちは。

叔母様の出身校でしたか。
私はその近くで以前仕事をしていました。

世の中狭いですね。It's a small world!
2011年05月01日 10:46
うわ~~面白くて一気に読ませていただきました。松井須磨子ってただ鉄火な女優くらいしか認識していなかったのですが。。。

すごい、なんだかますます嫌いになったけど(笑)でも興味が湧いてきました。
思えば可哀想なひとですね。けれども人を感動させる演技力があったのでしょうね。
お墓もうちのすぐそばにあったなんて知りませんでした。芸術座も!こんな風にできたのですね。お芝居に疎い私は何も知りませんでしたがとても勉強になりました。

それにしても昔の女性ってけっこう激しい人が多いですね。
2011年05月06日 01:02
乙女小箱さん
いつも訪問ありがとうございます。

派手さはありませんが、今回の話は是非披露したくてたまらないネタでした。
須磨子に感情移入して頂いたみたいで、私も嬉しいです。
今後も皆さんに面白いと思って頂けるようなお話を披露できればと思います。


P.S
歴史を調べれば調べるほど、女性は何時の時代も熱いと感じます。
それだけ一生懸命に生きた証と言えると思いますね。

この記事へのトラックバック