神奈川県鎌倉市 part3 白幡神社(大倉法華堂跡) 『源頼朝謀殺説』
先日鎌倉の白幡神社(大倉法華堂跡) にある『源頼朝』の墓が荒らされたというニュースを見て驚きました。何度も行って思い出のある場所だけにこの心無い行動には心が居た堪れません。今回はこの事件をきっかけに予定を急遽変更して鎌倉幕府初代将軍『源頼朝』の死の真相に迫ります。
鎌倉幕府を開いた征夷大将軍『源頼朝』は正治元(1199)年に53歳で死亡したと云われています。
死因は、「前年に家人の稲毛重成が亡き妻の冥福を祈って掛けた相模川の橋供養に臨席してその帰路に落馬した為」と鎌倉幕府が13~14世紀初頭に編纂したと伝わる『吾妻鏡』に記載されており、これが定説となっています。
しかし、普通に考えてみると当時としては高齢とはいえ武家の棟梁であった頼朝が、戦でもない場面で落馬して命を落とすのはお粗末過ぎるのではないでしょうか。
仮にこれが事実であったとしても幕府が編纂した『吾妻鏡』にそのような将軍の不名誉を態々記載するのも不自然と思われます。
しかも怪しいことに、この記述が『吾妻鏡』に記載されているのは、死亡したとされる年ではなく建暦2(1212)年と死から13年の歳月が経った箇所であり、またその扱いも申し訳程度に触れた程度で、更にその『吾妻鏡』には頼朝の死を含む3年間の出来事が欠落しているのです。
その為、頼朝の死に関しては様々な説が存在しています。
幾つか紹介すると、
■側近の過失で刺殺された。
■糖尿病による水の飲み過ぎで両足が衰弱し、(落馬の衝撃に耐え切れず)死に至った。
■(落馬時は)平氏の残党に襲われていたため、北条氏が態と医者に見せなかった。
■(落馬時は)弟の源義経や安徳帝の亡霊を見て驚き・・・
などがあります。
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どれも可能性としては無いとは言えない説なのですが、これらの説よりも比較的信憑性の高いものがあります。
それは、北条氏が暗躍していたとされるものです。
鎌倉幕府を開いたのは言わずと知れた源氏ですが、その実権を源氏が握っていたのは初代の頼朝から3代将軍『源実朝』までの僅かの期間。
しかも、2代将軍『源頼家』は将軍就任から数年後、3代将軍『源実朝』は28歳の若さでそれぞれ他殺されているのです。
『吾妻鏡』が書かれた時代には既に北条氏が実権を握っていました。
北条氏が鎌倉幕府の実権を掌握しようと頼朝の遺児と共に頼朝自身も謀殺したと考えると、『吾妻鏡』の頼朝の記述を意図的に簡略化したと辻褄が合うのです。
また歌人『藤原定家』が記した日記『明月記』には、「公家の『土御門通親』が頼朝の死後僅か7日目に、まるでその死を知っていたかのような手はずで頼朝派一掃の人事を行った。」とあります。
『土御門通親』は頼朝・九条兼実連合と対立しており、建久元(1190)年に頼朝が征夷大将軍就任を望んだ際に要求を退けて右近衛大将を任じたこともあります。
その為、北条氏との結託があったかなかったかは別として『土御門通親』が謀殺に関与したとの説も存在します。
【補足】
この謀殺説としては、激情家として知られる北条氏の一族の妻『北条政子』が関与していたとする説も根強くあります。
この説では頼朝の度重なる浮気に激怒した『北条政子』が頼朝がある女房の元に忍びに行った際に、警護の安達盛長に斬らせたと云われています。
如何せん証拠が存在しないため、これらの謀殺説は諸説ありますがどれもはっきりしません。
しかし、頼朝が死んで一番得をした人間は、明らかに邪魔な源氏を滅ぼしその後も関東を支配し続けた北条氏であり、彼らが裏で糸を引いていたと考えるのが一番自然ではないでしょうか。
そんな歴史に想いを馳せながら、頼朝の墓が修復された際にはまた鎌倉を訪れようと思っています。
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白旗神社(大倉法華堂跡)
住所:〒248-0004 神奈川県鎌倉市西御門2-6
交通:JR鎌倉駅から京浜急行バス・大塔宮行き5分
「岐れ道」下車徒歩5分。
鎌倉駅から徒歩25分,鎌倉八幡宮徒歩7分
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【参考文献】
『知られざる日本史 あの人の「幕引き」』歴史の謎研究会(株式会社青春出版社)
『異説 日本史99の謎』「歴史の真相」研究会(株式会社宝島社)
『日本史未解決事件ファイル』日本博学倶楽部(PHP研究所)
『歴史教科書に載らないネタ』日本博学倶楽部(PHP研究所)
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この記事へのコメント
歴史は正しく後世に伝えなければならないものだと思いますが、そこに携わる人間関係や利害関係で変わってしまった事実も多々ありますね^^;
外国との利害関係はなおさらですね。
正しく歴史を理解する必要がりますね。
。。。って、ここまでしっかりレポートされていることに感心しました^^q
いやぁ~ 良い勉強させてもらいました。
こんにちは。
歴史は強者が創っていると云われていますが、当にそうだと感じています。
なので私も真実と歴史は分けて考えるようにしています。
私のブログではエピソードを交えて成るべく今回の様な怪しいポイントを紹介できればと思って毎回取り組んでいます。
これからもみつばさんに楽しんで頂けるような話を見つけて披露させて頂きますね。
これからも遊びに来て下さいね。
コメントありがとうございます。
GSPさんは今回の様な武将や歴史の真実系のネタは好きですか?
私は大好きです。
このブログでは歴史から派生させて、由来・起源、文学、工学系、芸術系ネタなど幅広く披露していくつもりです。
リクエストなどがありましたら教えて下さいね。持っている文献で出来る限り対応させて頂きますよ。
私も真実と歴史とは別のものだという考えに賛同します。どこの国でもいつの時代でも、程度の差はあれかなりの違いがあると思っています。
いつもありがとうございます。
この吾妻鏡の不自然な点は比較的知られた話なのですが、理由は本当に謎です。ですが、誰かが意図的に行ったことはほぼ間違いないことと思います。
私もしばやんさんも記録やエピソードにとらわれず真実を追うのが好きなタイプですので、今回のネタは比較的お好きな部類ではなかったかと思います。
これからもまた遊びに来て下さいね。
私も鎌倉へは、何度か行っています。
政子の墓は、いわゆるやぐらと言われている鎌倉時代のものですよね。
頼朝の墓だけが、新しいのも可笑しいと思っていました。その辺の事情が、解ったような気がします。色々訳がありそうですね。
こんにちは。
あくまで推測の域を出ていませんが可能性は高いと思いますね。
私も金田一少年みたいに「謎は全て解けた!」っと言ってみたいです。
P.S
鎌倉はミステリーの宝庫とも言える程謎が多く、歴史と文学が特に似合う街。
その時代に想いを馳せてまた旅をしようと思います。
若かった頃、永井路子さんのお話を聞いたことがあります。何処のお寺だったのかさえ記憶にないのですが、永井さんのお勉強ぶりに驚いたことはよく覚えています。
鎌倉は歴史と文学が上手く融合した私のブログタイトル通りの『素敵な街』だと思います。
そんな鎌倉に出会えたことが幸せです♪