東京都千代田区 part2 滝沢馬琴住居跡 『やり遂げる執念』
先日41歳の若さで急死されたフジテレビの人気番組『ホンマでっか!?TV』の出演でも有名な流通評論家の『金子哲雄』さんは、病気の体をおして仕事をこなし、最後まで評論家としての職務を全うされました。方や昨今の政治家は内閣総理大臣をはじめマニフェストを遂行しないまま辞任し、とても職務を全うされているとは言えない状況が続いております。今回はそんな方々に是非読んで頂きたい困難な状況の中でも諦めず仕事を成し遂げた男と女のエピソードを紹介させて頂きます。
日本の近代以前の文学作品の中で最高傑作と謳われている『南総里見八犬伝』。
この作品の作者である『滝沢馬琴』は江戸時代後期の有名な劇作家です。
馬琴は全106冊にも上る大作『南総里見八犬伝』を書き上げるまでに実に28年という膨大な時間を費やしています。
そしてその執筆活動は決して平坦なものではありませんでした。
【補足】
『南総里見八犬伝』は、八房という飼犬の気を受け、伏姫が産んだ八犬士が里見家の為に活躍する話です。
滝沢馬琴は武士の家系の生まれで、父親は旗本屋敷の同人でした。
家系の影響もあり、読書好きだった馬琴は幼い頃から漢書や日本の古典文学に数多く触れて育ちます。
そして独学で漢籍、和書、俳書などを読み教養を磨いていきました。
また馬琴は浄瑠璃や劇作書も好んで読んでいました。
その影響で馬琴は、24歳のときに武士の身分を捨てて、劇作家でありながら絵師でもあった『山東京伝』に弟子入りをします。
そして翌年、黄表紙『廿日余四十両 尽用而二分狂言』で劇作家デビューを果したのでした。
【補足】
馬琴は元々は自身は武士であることに強い誇り持っていました。
そのため劇作を行うことは家名に傷を付けるものだと感じて悩んでいたと云われています。
さて馬琴は27歳のときには飯田町中坂の履物商伊勢屋のお百と結婚します。
これで生活の基盤として劇作に専念する環境が整いました。
そして馬琴は武士時代に嗜んだ教養を生かし、『曲亭馬琴』の名で次々とヒット作を連発していきます。
【補足】
馬琴は執筆活動だけで生計を立てた作家第一号の人物と云われています。
しかし、当時の原稿料を現在の金額に換算すると400字詰原稿用紙1枚で約1,000円という安さでした。
馬琴は生涯250を越える作品を残しています。
この数字は現代の感覚からも驚異的で、創作意欲の高さは抜きん出ていました。
やがて、馬琴は江戸文壇のトップの仲間入りを果します。
人気作家になった馬琴でしたがその執筆の無理がたたり、なんと68歳のときに網膜剥離(もうまくはくり)を患い右眼の視力を失うという憂き目に遭ってしまいました。
【補足】
その翌年には不幸にも長男の『宗伯』に37歳の若さで先立たれています。
更に天保10(1839)年には左眼も衰えだします。
そしてその2年後には左眼が完全に見えなくなり、74歳にして馬琴はとうとう盲目の劇作家となりました。
この時既に大作『南総里見八犬伝』を執筆中(文化11(1814)年の47歳時から執筆)でしたが、未だ完成には至っていませんでした。
馬琴は最愛の妻であった『お百』にも先立たれており、正に失意のどん底ではありましたが、創作意欲は未だ衰えてはいませんでした。
版元は読み物として人気を博していた同作品を続けてもらおうと、口述筆記のできる者を馬琴に差し向けて仕事の継続を依頼します。
【補足】
大作『南総里見八犬伝』は、そのあまりの長さになんと出版元が3軒も変わっています。
しかし、馬琴は自身の作品に高いプライドを持っていました。
それ故自分の思うように作品を書けない筆記者に口喧しく言い、版元が何人筆記者を差し向けようとも長続きしなかったのです。
終いには早世した長男のことを嘆き
「宗伯が生きていれば、一字一句間違えずに筆記したものを。。。」
と周囲に漏らす始末。
この状況を長男の未亡人であった『お路(みち)』が聞きつけます。
「是非義父の馬琴の手助けをしたい」
『お路』はそう申し出ました。
しかし、このとき『お路』は平仮名のにじり書き程しかできなかったのです。
その為、『お路』は必死で漢字の学習を開始します。
口述執筆は大変根気のいる作業でしたが、馬琴も必死の『お路』の努力する姿勢に感銘を受け、漢字一つ一つを教えながら作業を継続させていきました。
更に執筆には作品の資料の写本も読まねばなりません。
馬琴は叱ったり宥めたりと飴と鞭を上手く使い分けながら『お路』を指導していきました。
元々勝気な性格の『お路』ではありましたが、この時ばかりは泣きながら筆を持ち続けたと云われています。
【補足】
『お路』は努力の他に口述執筆以前は漢字を書いてなかったことも幸いし、馬琴の「こぶね」は「軽艇」、「ひろい」は「宇い」とする癖まで比較的自然に身に付けています。
また馬琴は失明の影響でこのとき原稿料が激減していました。
これに対して、正月の飾り付けも片付ける程の倹約家でもあった『お路』は、庭の竹の皮を売って家計を助けています。
更には厠に立つ不自由な馬琴を蝋燭を持って補助するなど、正に馬琴の目となって尽力し続けました。
やがて努力の甲斐が実り、『お路』は作品の批評を容易に代読し、評答をすらすらと書けるまでに成長します。
そしてこれら様々な苦労の末、馬琴の完全失明から約一年後の天保13(1842)年、終に大作『南総里見八犬伝』は完成したのでした。
この大作完成から7年後の嘉永元(1848)年11月、馬琴は使命を終え82歳の天寿を全うします。
【補足】
作品の完成にはとことん拘った馬琴でしたが、自らの生命には固執しませんでした。
発病した前月に体を案じた家族が名医と呼ばれる先生への診察を乞おうとすると、
「我極老に至り、医師三味いらぬ事に候」
とこれを断り、穏やかに亡くなったと云われています。
現在、東京都千代田区に劇作を書き始めた頃に住んでいた伊勢屋跡と終焉を迎える四谷(現・新宿区霞岳町)に移り住むまでに住んでいた神田明神下石坂下同朋町に馬琴の住居跡が残っています。
この大作執筆の舞台に想いを馳せて、『やり遂げる執念』に肖って散策してみては如何でしょうか。
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滝沢馬琴住居跡(履物伊勢屋跡・硯の井戸)
住所:〒102-0073 東京都千代田区九段北1-5-5 東建ニューハイツ九段
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滝沢馬琴住居跡(芳林公園)
住所:〒101-0021 東京都千代田区外神田3-5-18
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【参考文献】
『たけみつ教授のホントは非常識な通説日本史』武光誠(株式会社リイド社)
『日本史の舞台裏』歴史の謎研究会(株式会社青春出版社)
『歴史教科書に載らないネタ』日本博学倶楽部(PHP研究所)
『知られざる日本史 あの人の「幕引き」』歴史の謎研究会(株式会社青春出版社)
この記事へのコメント
やり遂げるとかやり切るってことは、やっぱり大変な労力と気力の要ることですねぇ...
生涯をかけたのでしょうか?
そろそろ、凍る季節ですね。
こんにちは。
お路さんは夫を亡くしていたため、作品が未完成なことろに苦労してでも生き甲斐を見出していたのでしょう。
それにしてもなかなかできることではないと思います。
こんにちは。
お互い大切な人を無くしていたので、苦労するより悔いを残すことが辛いと悟ったのでしょうね。
私もお二人とも素敵な人物だと思います。