山口県下関市 part1 白石正一郎邸跡・赤間神宮 『援助の力』
日本の大会3連覇がかかっているWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)。今年は日本人メジャーリーガー不在やオランダ、台湾等の躍進があり苦戦を強いられています。この様なときこそ、勝利にはファンの力が絶対必要ですね。激動の幕末に己の生涯をかけて志の高い若人へ献身的に力を貸した人物がいます。今回は日本の未来に投資した豪商『白石正一郎』と白石家の働きを紹介します。
幕末の雄藩である長州藩は明治維新の立役者として知られています。
この長州藩の維新史は奇兵隊他様々な人物に対して援助した下関の豪商『白石正一郎』を抜きに語ることはできません。
幕末の志士らは各地を飛び回り、徒党を組んで武器の調達などを行っていました。
この様な活動には当然莫大な経費がかかります。
長州藩は藩を挙げて尊皇攘夷活動を行っていたため、藩からその費用が出ていました。
しかし、有名な8月18日の政変から『池田屋事件』『禁門の変』と続く長州征伐事件の度に藩政は進発論と慎重論が交互に台頭するという不安定な情勢が続いていました。
これは藩政が一度保守に傾けば給与が打ち切られるという事態が生じることを表しています。
この様な不安定な情勢で豪商『白石正一郎』は活躍します。
白石正一郎(1812~1880)は長州藩の属領『清末藩』にあった下関竹崎の地で小倉屋を営んでおり、商船を所有した地主でもありました。
【補足】
下関は当時『赤間関』と呼ばれました。
赤間というと『赤間神宮』が竜宮城のモデルとして全国的に有名ですが、この神社は意外に新しい神社です。
平家物語で有名な壇ノ浦に沈んだ『安徳天皇』は阿弥陀寺の御影堂に祀られていました。
しかし、天皇を祀るのが寺では困るという明治政府の考え方により、御影堂は神社となっています。
そして、明治8年に赤間神宮という名称へ変更となりこれが今日まで続いています。
彼の住まいであった白石邸には幕末の重要な人物が出入りしていました。
これらのことは、安政4(1857)年9月12日に始まる『白石正一郎日記』に記録されており、宿泊者から出来事等を詳細に残しています。
『白石正一郎日記』の最初のページに記録されている同年11月12日の項には、
「工藤左門入来同夜薩摩西郷吉兵衛米良何某工藤周旋にて来たり各一宿翌十三日夕方西郷吉兵衛米良乗船江戸へゆく工藤は滞在同十六日帰筑」
と、西郷隆盛が幕末の早くに既に来訪していたことが、確認されます。
白石正一郎は志士を宿泊させたり、追われるものを匿って活動資金を提供するなどの援助をしていますが、そもそもそのきっかけとなった出来事はこの西郷隆盛の宿泊に始まるのです。
将軍継嗣問題で江戸に向かう西郷隆盛が、下関で一夜の宿を求め、白石邸へ泊まることになります。
ここでの西郷との会話が正一郎を維新達成を悲願とする道に駆り立てたと云われています。
正一郎が援助をした人物は桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞といった長州藩の志士に留まらず、薩摩藩の大久保利通、小松帯刀、土佐の坂本龍馬、筑前の平野国臣、久留米藩の真木和泉守といった幕末の歴史を動かす西国諸藩の者達も含まれていました。
無名のものらも併せるとその数、およそ400人にも及びます。
幕末の不安定な情勢の中で、白石正一郎が資財を投入し続けたお蔭で倒幕活動は成り立ったと云われており、倒幕の歴史は白石邸を中心に動いていたといってもけっして言い過ぎではないのです。
更に急進派の公卿『中山忠光卿』、『七卿落ち』で有名な『三条実美』ら七卿といった位の高いVIPも白石邸を定所としていました。
【補足】
七卿の『錦小路頼徳卿』にいたっては、京都から移った下関で病を患ってしまいます。
そして
「暮なくも三十路の夢はさめにけり赤間関のなつの夜の月」
という辞世の句を残し、ここ白石邸で30歳の生涯を閉じています。
白石邸で起こった最も有名な出来事としては、高杉晋作の奇兵隊結成が広く知られています。
下関は文久3年5月10日に徳川幕府との攘夷戦を開始しました。
6月8日、壇ノ浦・前田台場の立て直しのため、高杉晋作が下関に入ります。
そして6月8日、白石家がその費用を全て賄って白石邸を本陣とし、民衆も参加した有名な『奇兵隊』が結成されます。
このとき、白石正一郎51歳。
27歳年下の高杉晋作の志を受け留め、経済的な援助と併せて弟の白石廉作らと自らも奇兵隊に入隊します。
そこから回船業で儲けた資財の全てを国事に注いでいったのです。
6月13日、奇兵隊は直ぐに60人を超える大所帯となりました。
そこで手薄になった白石邸から本陣を阿弥陀寺(現赤間神宮)に移していますが、転陣後も隊士らはしばしば白石邸を訪れて、もてなしを受けています。
【補足】
金子文輔の「馬関攘夷従軍筆記」は、その様子を
「白石正一郎一家の者、有志党」の為に奔走し、家族婦女子等に至るまで朝夕酒飯等給事し、太だ鄭重なり」
と伝えています。
特に隊長であった高杉晋作との親交は深く、高杉晋作の妾おうのを預り、また病を見守るなど物心両面にわたって支援しています。
更に正一郎と廉作は家業を放棄して、各地に転戦もしています。
【補足】
白石廉作にいたっては、転戦の中で生野の挙兵に参加して命を落としています。
故に先で述べた多くの人数の世話を白石正一郎だけでは到底行うことはできず、その影では白石家の女性らの活躍がありました。
その女性らを取り仕切ったのは、白石正一郎の母『艶子(津屋)』。
元治元(1864)年には、齢70歳と既に高齢ではありましたが、家付き娘で奥向きの実権を握る立場でした。
白石正一郎の妻『加寿子』、弟の白石廉作の妻『延子』を指示しながら、VIPの身の回りの世話は使用人を使うことなく、嫁2人に当たらせる等配慮を行っていました。
【補足】
『三条実美卿』はその滞在中に、
「妻子らも心ひとつに君のためつくせる宿ぞさきくもあらめ」
という歌を詠んでいます。
心行き届いたもてなしに感謝していた事が伝わるエピソードです。
預かって世話した人物には先に述べた『おうの』が知られていますが、他には平野国臣の妾『お秀』、高杉晋作の妻『雅子』とその息子『東一』も萩から出てきた折に世話しています。
また勤皇歌人『野村望東尼』が志士を匿った罪で、姫島へ幽閉された際は、高杉晋作が救出して下関へ迎え、白石家が世話を行っています。
奇兵隊が存続出来たのは言うまでもなく、白石家のバックアップのお蔭ですが、後に高杉晋作はこれを
「飲み尽され、食い尽くされ、借り尽くされ、心配だ」
と評していました。
そしてその心配は的中します。
白石家は慶応元(1865)年頃には既に破産に近い状態でした。
高杉晋作が維新回天前に病没し、このとき白石正一郎が実質的な葬儀委員長として克明な記録を残していますが、盟友高杉晋作と父『資陽』の死が重なり、家業は完全に傾いていたと云われています。
維新後の明治8(1875)年まで何とか商売自体は続けていますが、白石家は終に破産してしまいます。
【補足】
白石家は何代もかけて蓄積した財産を食い尽くされ、潰れる形となりましたが、これは国学者の『鈴木重胤』の影響があったからと云われています。
白石正一郎とともに母『艶子』、父『資陽』は『鈴木重胤』に親しく学ぶ国学の徒でありました。
そこから尊皇攘夷論の熱心な信奉者となり、その国学の信念に基づいて、志の高い志士らを献身的に支え続けたと云われています。
白石家の破産を知った薩長の明治政府は、恩義を感じて正一郎を取立てようとしました。
しかし、正一郎はその誘いを全て断ります。
後に正一郎は明治10(1877)年、赤間神宮の宮司としてひっそり暮らすことを選択し、明治13(1880)年に69歳でその生涯を終えるまで、長州の地を離れることはありませんでした。
大きな活躍の裏には誰かの献身的な支えがある。
白石正一郎他白石家はその最もな例であると言えます。
下関にはその支える気持ちを再確認できる場所が残っているのです。
白石家に想いを馳せ、下関を訪れる際は是非白石正一郎邸跡と赤間神宮を訪ねてみて下さい。
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白石正一郎邸跡(奇兵隊結成の地)
住所:山口県下関市竹崎町3-8-13
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赤間神宮(旧阿弥陀寺)
住所:山口県下関市阿弥陀寺町4-1
電話:083-231-4138
FAX:083-234-1248
交通:JR下関駅 サンデン交通バス『赤間神宮前』下車
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【補足】
『白石正一郎日記』によると、明治維新後の白石家は商売は傾いていましたが、人の往来は多く続いていたとあります。
明治2(1869)年には、奇兵隊の幹部だった山縣有朋が洋行するとのことで別盃を酌み交わた記録や、明治3(1870)年には旧藩主『毛利元徳』の子『毛利興丸』が2泊したという記録が残っています。
そして明治5(1872)年には、天皇西国巡幸で白石家を行在所にする話が一反ありました。
しかしこの話はなくなり、行在所は同じ下関阿弥陀町の伊藤本陣となっています。
この年の年末に改暦があって、明治5年12月3日が明治6年1月1日になるという現在のグレゴリオ暦へと切り替えられることになります。
そして、この改暦を記に『白石正一郎日記』は暫く途絶えます。
後に明治10年に突然赤間神宮の宮司に任命されたこと、翌明治11年の行事を行った簡単な記述を行っており、これにより白石正一郎の明治維新後の姿が今に伝えられています。
【参考文献】
『物語 幕末を生きた女101人』「歴史読本」編集部(株式会社 新人物往来社)
『幕末維新・あの人の「その後」』日本博学倶楽部(PHP研究所)
『教科書が教えない歴史の[その後]』日本史追跡調査(株式会社 新人物往来社)
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